Pursuing truth

There is some truth in what I say.
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忘れるとこだった
言及しようかしまいか5分悩んだが。

アフェリエイト系ブログだということを思い出したのでやーめた。

今日の判決ですよ。

なんとしてでも
203 :癒されたい名無しさん :04/11/21 21:51:33 ID:hCJPqqua
小学生のとき、少し足し算、引き算の計算や、会話のテンポが少し遅いA君がいた。
でも、絵が上手な子だった。
彼は、よく空の絵を描いた。
抜けるような色遣いには、子供心に驚嘆した。

担任のN先生は算数の時間、解けないと分かっているのに答えをその子に聞く。
冷や汗をかきながら、指を使って、ええと・ええと・と答えを出そうとする姿を周りの子供は笑う。
N先生は答えが出るまで、しつこく何度も言わせた。
私はN先生が大嫌いだった。

クラスもいつしか代わり、私たちが小学6年生になる前、N先生は違う学校へ転任することになったので、
全校集会で先生のお別れ会をやることになった。
生徒代表でお別れの言葉を言う人が必要になった。
先生に一番世話をやかせたのだから、A君が言え、と言い出したお馬鹿さんがいた。
お別れ会で一人立たされて、どもる姿を期待したのだ。

私は、A君の言葉を忘れない。

「ぼくを、普通の子と一緒に勉強させてくれて、ありがとうございました」

A君の感謝の言葉は10分以上にも及ぶ。
水彩絵の具の色の使い方を教えてくれたこと。
放課後つきっきりでそろばんを勉強させてくれたこと。
その間、おしゃべりをする子供はいませんでした。
N先生がぶるぶる震えながら、嗚咽をくいしばる声が、体育館に響いただけでした。

昨日、デパートのポストカードなどに美しい水彩画と、A君のサインを発見いたしました。

N先生は今、僻地で小学校で校長先生をしております。
先生は教員が少なく、子供達が家から2時間ほどかけて登校しなければならないような
過疎地へ自ら望んで赴任されました。

N先生のお家には、毎年夏にA君から絵が届くそうです。
A君はその後公立中高を経て、美大に進学しました。
お別れ会でのN先生の挨拶が思い浮かびます。

「A君の絵は、ユトリロの絵に似ているんですよ。
 みんなはもしかしたら、 見たこと無いかもしれない。
 ユトリロっていう、フランスの人でね、街や 風景をたくさん描いた人なんだけど。
 空が、綺麗なんだよ。
 A君は、その才能の代わりに、他の持ち物がみんなと比べて少ない。
 だけど、決して取り戻せない物ではないのです。
 そして、A君は それを一生懸命自分のものにしようしています。
 これは、簡単なことじゃありません!」

A君は、空を描いた絵を送るそうです。
その空はN先生が作り方を教えた、
美しいエメラルドグリーンだそうです。


もどきは、
担任のN先生は算数の時間、解けないと分かっているのに答えをその子に聞く。


の部分を読んだ時点で、この話を理解しました。

私が子供のときは、多かれ少なかれ、小中学校のほぼすべての先生はN先生のような先生ばかりでした。

端的に言うと、「なんとしてでも普通の社会生活を送る学力を身につけさせる」という気迫を持った先生ばかりでした。

そしてそれは、文字通り「なんとしてでも」でした。

現在、過疎化がすすむ地域では高校入試も形骸化し、受けさえすれば合格するというのが実情でしょう。

分数はおろか、掛け算・割り算、小学生程度の漢字の読み書きもできない高校生が普通にいます。

私は第二次ベビーブーム世代ですが、たくさんの子供の中には、勉強できる子、できない子、特殊学級や養護学校に行く子も当然いました。

しかし、昔で言うところの「勉強できない」と現在の「勉強できない」は明らかにレベルが違うのです。
懐古主義とか、そんな問題じゃないのです。
明らかにレベルが違うのです。
15年間、何をしてきたんだ?
何があったんだ?

本気で涙が出るほど腹が立つ思いをするのです。

言いたくはないけど、どこかの時点で諦められたとしか思えないのです。

俺のことはどうでもいいのですが、切実に思うのです。
学校の先生を生徒以外のことで忙しくさせてはならない。と。

先生を評価する時代がすでに始まっています。

勉強できる子を、どれだけ偏差値の高い高校へ入れるか。
まったく算数のできなかった子を、二桁の割り算ができるようにする。

前者のほうが評価されることになったら、まずいのです。
本気でまずいのです。

N先生は、理解されたからラッキーです。
引用文の筆者のように、在学中は先生を憎んでいた子も多くいたはずです。

そして、今、N先生のように「なんとしてでも」という気迫をもって生徒に対峙したとき、同僚からも保護者からも批判される可能性は決して低くありません。

私自身も養護教諭とぶつかったことがあるという話は以前にしました。

なんとしてでも社会に巣立たせる。
なんとしてでも生きていく力をつけさせる。

「生きる力」という言葉が、最近の教育界のお題目になっていますが、それが叫ばれ始めてから、確実に生きる力のない子が多く育っています。
不思議なことに。

自分の教え子の作ったモノが安心して使える。
自分の教え子の作ったモノが安心して食べられる。

それが、最低限度の先生の仕事だろ。

繰り返す。

「なんとしてでも」だ。



先生論
さっきから過去ログ読み返してるんですが、
あらためて、俺って同じこと言ってるなぁと思います。
ですが、やっぱ昔に書いたもののほうが断然おもしろいのは何故なんだろう・・・。
以下、過去ログを一部訂正したものです。

2004/04/09
聖職という職業がいくつかありますが、もどきの思う聖職の定義は、『他人の幸せを心から祝福することができる』職業ということです。

もちろん、大きく考えれば、すべての職業にその定義は当てはまるのですが、方法と過程において、祈りにも似た純粋な点においてです。

他人の幸せを心から喜ぶことができるなら、それだけで教員の資質はあると思っています。

では、実際問題として、生徒が一生懸命努力して、それを喜ばない先生は存在するのでしょうか?

多分、いないと思います。

この論法でいくと、そういう点においてだけは、ほとんどの人が先生になることが出来ることになります。

でも、現実的には先生に向いている人と向いていない人というのはありますね。

---------------
ここからは、個人的な意見なので、異論もあるかと思いますが恐れずに書きます。

もどきは、結構、英語が得意なほうです。

高校のときの英語の先生は、冗談抜きに、まったく分からない授業をする先生でした。
お祭りと酒が好きで、二日酔いでフラフラしながら授業に来ました。

しかし時代ですねぇ・・・。
当時の私たちは、酔っ払って、わけの分からない授業をするところに一目置いていました。授業中に、「一服の時間や」といって、タバコを吸う先生もいました。
今では考えられないそんなところに、生徒が一目置く時代でした。

今よりも無茶苦茶な先生が、その無茶苦茶さ故に一目置かれる時代でした。

好きであろうが、嫌いであろうが、先生というものは絶対者でした。

結論をいうと、私たちは、その英語の先生の授業は、わけが分からんから、自分たちでやるしかない!ということになりました。
進学希望クラスでしたから、授業がわからんとか、先生が嫌いだとかいう理由で英語を諦めるわけにはいきません。(その先生のことは好きでした。)

自分でやろうとしたときの力は、凄いものです。
わけの分からん授業をする先生でしたが、その先生はなぜかいつも進学クラスを受け持っていました。
そして、その理由がわかったのは、ずっと後になってからです。

その先生の授業が、今の時代の子供に合うかどうかは、私にも分かりません。

でも、たま〜に、パチンコ屋で、その先生に会います。

「先生! 先生の授業は、ほんとに分かりませんでしたわ!笑」

「当たり前や! 勉強するのは生徒の仕事や!」

校長になった今でも、酒とパチンコは欠かさない数少ない本物の教師です。


「先生のおかげで・・・」というセリフを吐かせる先生は一流だと思います。

ですが「自分自身の力で・・・」と思わせる先生は超一流だと思います。

どちらもよい先生です。

法律に触れる行為や、聖職者にあるまじき行為をする教員は、罰せられて当然です。

しかし、なにもかも全国ニュースに流そうとするのは、百害あって一利なしだと個人的には思っています。

今の子供たち、そして親たちにとって最も不幸なのは、先生に対して100%の信頼を持てないことにあると思います。そしてそれを作り上げたのは当然マスコミですが・・・。

話がずれましたが、いろんな先生がいて当然で、そのほとんどの先生は、子供の成長を心から喜んでくれると思います。

もどきのような天邪鬼は、ここ最近の「わかる授業」とか「わかりやすい授業」とかいう言葉を聞くと、
それが真の意味で子供のためになるのか?
ゴールが見えているなら、あえてハードルを高くしてやるのも教師の仕事じゃないのか?
集中力のなさや、おもしろいことにしか興味を示さない子供の変化に対して、それに迎合するのがほんとに子供のためになるのか?
と思ってみたりするのです。

分かりにくくても、分かろうとする環境を作ってやるのが大人の務めじゃないのか?
意欲がすべての困難を凌駕するんじゃないのか!

と思ったりするわけです。

だめだこりゃ・・・。もうおっさんというか。
原始時代の生き残りになってしまったなぁ・・・。


「子供の目線に下りる」
一見、いいような言葉に見えますが、
行過ぎると、子供のままの大人を作り上げるような気がします。

過ぎたるは猶及ばざるが如し。